私の知覚外で世界が運行しているという事実に胸打たれながらも、その認識やその運行に直に触れた時点で脳内に幽閉されてしまうのが人間なのか


先日、クオリア日記で興味深い書評がアップされた。
茂木健一郎 クオリア日記: クォンタム・ファミリーズ
過去に一読した解説サイトも改めて読み直し、以前とは異なる感慨で満たされた。
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/tasekai1.html


多世界解釈について、致命的な誤謬でも発見されない限り、私はすんなり受容が出来る。この世界内で私が原理的に知覚出来ない事象が息づいているという事実を、平行世界間にまで拡張すれば良いからである。
他の平行世界は決して観測できないというのも、また良い。決して触れ合う事がない、しかし私と同等のリアリティをもって存在する(はずの)他に思いを馳せる身からすれば、非常に味わい深い。


他に思いを馳せる契機、それは日常的に呼び起こされる。蛇口をひねり水を満たしたコップに口をつけた感触は、「今ここ」に限定された私に対し影響する、与り知らぬ諸々の事象の気配を伝える。
では平行世界について、どこにそれを求めるか。二重スリットの実験にその気配はあるだろう。茂木健一郎は仮想によって、その気配を探ろうとしている。


いや、しかし。ここまで我田引水的な書き方をしていて気がついたのだが、逆かもしれない。現実の物理的な限定に囚われない、自由な仮想の着地先として平行世界を見据えているように見える。


二重スリット実験から派生する解釈等に、私が以前とは違った感慨を覚えたように、「脳と仮想」を今一度読み返せば新たな発見がありそうである。現実も脳内現象と捉え仮想を特別視しない立場は主体に軸足があるとすれば、私はやや客体に軸足を置く立場と言えるかもしれない。
理由はといえばその方が現時点で生きやすい、につきる。


茂木はかつてこの言葉を紹介していた。Yoko OnoがGrapefruitという作品の中で語った「Listen to the Sound of the Earth Turning」である。
文脈の中で、どういう意図で記したのか、それはOno本人にしかわからない。あるいは本人にもわからないかもしれない。それでも私もこの一文が好きだ。
「頭蓋骨に閉じ込められた約一リットルの脳」が放つ、ソナー音を聞く。
いずれこちらからもソナーを打ちたい。

傷は、過去を脱ぎ去り変身することで癒やすもの

 英語学習に最適な教材が無料で利用できる。広告料で運営しているのだろうか。ネイティブの発音まで確認でき、重宝している。
http://smart.fm/apps/iknow
 地味だが必要なステップをきちんと踏めば、人間が想像可能なことくらいは達成できると言ってのけた人がいた。その人は、この入り組んだ世の中を驚くほど軽やかに、愉しげに旅していた。
 私も田舎者からコスモポリタンへの転身を夢見て、今日もステップを刻む。
 独り言ブログから対話ブログへ、日本語圏から英語圏のコミュニティへ、変身を遂げる日も近いかもしれない。

崖の上のポニョ

 金曜日、日本テレビで放映されていた「崖の上のポニョ」を観賞した。少なからず教養が要る神話的な謎解きは断念しつつも、唸らされる部分はそこかしこにあった。
 まずは並存性。宗助とリサの暮らす日常では、他の児童や保護者、介護施設の職員らがそれぞれの時間(都合)をきちんと生活している。ポニョが暮らす水中世界、街が水没した非日常世界でもそれは徹底され、クラゲも古代魚カニも、主人公達と同様に物語を抱えて生きているように感じられる。グランマンマーレとの対話シーンや峠をリサが車で攻めるシーンなどで主人公の「視野の外」を三葉虫や漁船がのんびり見切れるあたりは、特にその感慨を抱かせる。
 次に印象的だったのは、三途の川と思しき場所で、乳児の母親が語ったシーン。うろ覚えだが、母親はポニョに対し「赤ちゃんはものが食べられないので、お母さんが代わりに食べておっぱいとして食べさせてあげるの」と語る。乳児が食物を食べられないのは当然といえば当然なのだが、ハッとさせられた。成長した個体は、自ら他と向き合い、他の命を取り込むことが出来る。一方の赤ん坊は、生存に不可欠な栄養補給を母親に全面的に依存しており、母親無しには生きられないのだ。母親を経由して他(世界)と向き合っている存在。授乳はそのことを端的に象徴的に示している。必ず同じ経路を通じてしか、他と向き合えない状態は赤ん坊と同じなのかもしれない。
 そして最後にもうひとつ。フジモトがポニョの本名はブリュンヒルデだと言い張るシーン。授乳のシーンとも関連する関係性の問いを想起させる。フジモトとポニョとの関係はブリュンヒルデという名なのだが、ポニョはその関係性を超え境界を越えることで、与り知らぬところで生きていた宗助に出会う。二人は出会うことで、お互いに生まれ変わるのだ。新しい関係につけられた名はポニョという。既知の自分に安住しがちな、私達の更新可能性を鼓舞してくれる。


 これらを踏まえつつ、私は崖の上のポニョには世界の相似形を感じた。
 与り知らぬところで、与り知らぬ何かが、生きている。動いている。生物か無生物かもわからない。微塵にも満たない私の知覚範囲では知りえないし、想像だにしえない。だがこれを読む貴方をはじめ、たしかにいる(はずだ。)
 原理的に私には知覚し得ない。その自らの有限性への絶望は、限りない世界の広がりへの希望と全く等しい。
(そして窮極的に言えば、身体も、意識を宿す脳も、いや意識すらも、与り知らぬところから立ち上がってきているから、微塵ほどの有限性すらないのかもしれないけれども。)


 宮崎駿崖の上のポニョのCMコピーで「生まれてきてよかった。」と謳っている。私にとって、これは相当な覚悟がなければ他者に語りかける事が出来ない言葉である。もし同様の言葉を私が誰かに送るとしたら何を以ってその証左とするか。自らの無明と裏表の、果ての無い可能性とでも言おうか。いや、当分宿題になりそうである。
 

マイルストーン

何かの岐路を過ぎたような気がするのでここに留めておく。


与えられた生をどう引き受けるか。それに私は苦心してきた。
試行を重ねるにつれ、身体性を無視した方法論は有効性を失っていく。


身体は、必然的に、その外部のものと対立を強いる。
ある地点で、私は臆病な博愛主義者を脱ぎ捨てる決意をした。


すると雲散霧消、次第に視野が定まってきたように感ずる。


このあたり表現が容易ではないのだが
対立とは即対決を意味するのではなく、適度な緊張関係の維持といった
意味合いである。


自らの有限性を自覚し、生物無生物問わず他の有限なものたちとの均衡を続ける。


主義や主張が真っ向からぶつかる相手は、都合が悪く、著しく気分を害すものであるが、
その存在自体は認めることが、即自分の存在を肯定することとなる。
対立の覚悟は寛容と表裏一体である。


自らの有限性、その都合の局所性から、どこまでも広がる他の都合の海を見渡せる。


無知の知をもじれば、無感の感とでも言おうか。


外部との対立と同時に成立する外部への信頼。

悪夢から覚めるために

気になることがあった。
それは先日見た夢で、赤や黄色いのゲル状の洪水で街が次々と飲まれていくもの。
テレビで生中継され、窓の外にも同じような光景が広がる。


まことに頓珍漢な光景なので、私は夢の中で夢かと疑うが、
リアルに見えているのだから夢ではないと思い直してしまう。


結局は再度夢だと気がつき目が覚めるのだが、
現実だと思い込んでしまった時の感触は拭い難く心に残った。
人間に宿命付けられた脆弱性のような。


そんな折、海外に住み働く人の記すブログを読んでいると
日本社会の特異性が指摘されていた。


日本から一歩も出たことのない田舎ものの私には
日本が普通であり基準であり、
それが外から見ていかに頓珍漢でも
リアルな唯一の現実であった。


まるであの夢と同じ。


思い返してみれば、私にとって魅力的な内容の文章と
その背後に透けて見える人間的な生き方をしていると思しき人々は
ほぼ例外なく英語を使いこなし、海外での暮らしや仕事の経験がある。


悪夢から覚めるには
そちらに光がありそうな予感がする。


もちろんこの認識すらも夢の思い込みと同型なのかもしれない。


なので、ここから先は投機になる。
逃避というニュアンスを含みながらも
体ごとぶつかって挑戦しなければ、道は開けそうに無い。


お気楽方面から考えても
インターネットのコンテンツで
日本語圏よりも
英語圏のほうが面白いものがごろごろしてるから、
モチベーションは持続できそう。


日本という普通にしがみつかないで生きられたら。
圧倒的存在だった「私」が相対化され、
それに囚われにくくなりそうな。


はやくでかい顔をして生きたい!
というわけで、英語で生きる道を探る。

土曜日の午後、「飛び出せ!科学くん」というバラエティー番組の総集編が放映されていた。
風船カメラで地球を撮ったり、田んぼで生き物探しをしていたり。
http://www.youtube.com/watch?v=H6pII_ZMj7M
田んぼで捕れるタガメやドジョウはエイリアンのようで、
久しく土や泥で遊んでいない目からすると、生々しく、少しグロテスクにうつった。


そんな風に田んぼの生と隔たりを感じていると、
同じ地平に私も生きているという当たり前の直感を得る。


私自身は私のもので、私のことは私がよく知っていると思い込んでいるけれども
タガメやドジョウと同じように本当はよくわからない。
私は得体の知れない生き物で、アマゾンのジャングルに生息する見たこともない生き物と
本質的に変わりがない。


冒頭の、風船カメラで撮った美しい成層圏と「いまここ」を隔てているものがあるとすれば
「私」という強固な思い込みがそれにあたる。


隔たりを作っているのはほかならぬ私であった。
人為に塗れた目を自然が洗い流す。

生きていても死んでいてもいいのだ。
人間が介在しようがしまいが脈々と息づく因果の流れのようなもの。
慈悲にも無慈悲にもなるその流れ。
高尾山の大木に生える苔や小石がなぜそこにそのようにあるか。
私やあの人がなぜそこにそのようにあるか。
直接的には指し示せないその流れのようなものの面影。