ある感覚


ある身体感覚について書いている。(厳密に言えば身体感覚という表現も誤りなのだけれども)
薬物の常用も服用もしておらず、調べてみた範囲で精神疾患の症状にも当てはまらないので
妄想や幻覚である可能性はおそらく低い。
ただ、私個人の見解であり独善的である可能性は多々残されている。


あくまで届けたいのは感覚。
なので、字面だけ見てつまんないなぁとせずに、
どういった感覚を言わんとしているか、紙背を見通してもらえればうれしく思う。

当blogの記事は、この感覚を得るまでに試行錯誤した過程であるので、他の記事は全部無視してもらってかまわない。
記事の日付が未来になっているのは先頭に表示するためで、折を見て表現などを修正するかもしれない。
言葉で言って受け渡すことはできない、けれど唯一私が抱える伝える価値のあるものだから、時間をかけて少しずつ改定していく。

11/8/8 一部修正
2017/06/26 認識の更新によりトップから外した

以下、草稿--


その感覚は、薬物や精神疾患による症状でなく、日常生活の明瞭な意識状態において発揮できる。
ある体験からの発揮。


原理的に対象化できない、言葉にできないものだということを前提として表現するなら「現実」。
仮想や夢の対置としての現実ではなく、それしかない「現実」。
「世界」「宇宙」「すべて」「運行」「流れ」とも同義であるそれを見る、というか
それしか存在しないことを受け入れる体験。



体験と書いたが、その時、主体は失われているので正確には事後的な表現である。
クオリアのような質感も、それを観察するデタッチメントされた主体がいる)



肉体や精神を自己所有しているという幻想が、それを妨げる一番の要因であろうと思う。
挫折した人、絶望した人が、死を意識し自らの有限性と向き合うとき、その幻想が充分に希薄化され
ある体験に到達しやすいのかもしれない。



禅僧の南直哉は、ある種の体験には事後的な解釈によってカルトに陥る危険があると述べていた。
それに照らして考えてみるとこの感覚は、おそらくいかなる解釈によっても不十分なものにしかならない。
誰かに教わることも、誰かに教えることもできない。各人が独自で体験するしかない。
神秘体験につきものの、何をすべきだとか、何をすべきでないといったメッセージなど一向に読み取れない。
すべての価値判断を諦め、ただその身に映すほかない。


それを踏まえた上で、私個人として何が変わったかというと
「なぜ生きているのか」「何を拠り所に生きればよいのか」といった根源的な不安が解消された。
かといって、聖人になるわけでも仙人になるわけでもない。
ろくでもない感情や思考、食う寝る遊ぶの欲望は滅するわけでもない。
ただそういった諸々が、「私」という図太い輪郭線で区切られた内部から開放され、
真に世界的な(宇宙的な)現象なのだということに驚く。