スポンジは徹底的にスポンジ

 お風呂場を掃除している時にふと気がついたことがある。それはスポンジはひたすらスポンジでいるということ。
 原材料からスポンジの型に成型されて以来、このスポンジはスポンジとして存在し、今日では我が家のお風呂場で出番のない時はひたすらに鎮座しているわけで、目を放した隙にたわしに変身することも無く、ただただ全身全霊で単なるスポンジである。いつか来るお役御免、焼却処分のその日までスポンジはスポンジとしての性質を保ち役割を粛々とこなす。かっこいいぜ、スポンジ。

 で、犬の散歩をしていてもうひとつ気がついた。ひたすらに与えられた存在であり続けるというのは他の事物も同様ではないか。カミソリも髭剃りクリームも、SONYのディスプレイもnepiaのティッシュも、空に浮かぶ中途半端な雲も地面に生えている細長い雑草も、平気で路上でウンコする犬もそれを飼っている人間も。あらゆるものがそれぞれの性質を保ちそれとして存在し続けている。もちろん永久不滅なものなんてないから、終わりが来ればその存在は解消されてしまうけれど、その存在でいるうちは例外なくその存在であり続ける。

 こういう視点に立てば、どうして私はダメなんだろう、とか、どうして私は他の人と違って○○なんだろうとか自分自身について悩んだり苦しむ必要が無くなる。なぜかってーと、自分の身体や性格、思考能力や心理状態はすべて例外なく人間として必然的な状態だから。地球上でりんごを手から離せば何千何万回落とそうが例外なく地面に落ちるのと同じで、今ここにある自分は100%必然的な状態にある。スポンジはハサミを入れればぶった切られてしまうわけで、人間としての自分も悪口言われれば傷つくし変なもの食べれば腹こわすし疲れれば休みたいのだ。それは自分が悪いからではなく、また誰が悪いわけでもなく必然的な現象なのだ。

というわけで、今日大学をサボった自分を正当化するのである。