東の都に帰ってきたぜこの野郎!

 田舎で見性に関して感じたことを書く。

 人の視野は驚くほど狭い。生物としての能力の限界もあるけれども、それよりも思い込みによる視野の欠損が著しい。目の前で走っている自動車や目の前で喋っている人、目の前で歩いている犬を見るときにどう感じているか。ああ自動車だな、ああ○○さんだな、ああ犬だな、など目の前にあるそれらを意識している時には他の一切が消えてしまう。自動車は自動車で独立して存在しているように見えるし、○○さんも犬もそれぞれ勝手に生きているように見える。
 しかしそれは見えるものを自分なりに解釈して見ている状態だと思う。自動車も○○さんも犬もあらゆる関係の中で存在しているものであって決して独存しているものではない。現在の私の解釈では見性とは、Aという存在をただAとしてだけ見ずに世界全体がAと共に見えることだと思っている。一切の事物は世界全体とのつながりを持っているのだ。ただ世界全体とAとの間には境界線があるわけではない。水面に顔を出している氷山の一角が、水面下の巨大な氷山の存在を担保しているように、Aという存在と世界全体は連続的な一体であると思うのだ。

 上記のように解釈し始めたのは、田舎で東京に帰る支度をするため、トランクスをたたんでバッグに詰めようとするときに(厳密にはそんなものないと思うが)宇宙の端のどでかい惑星と目の前のトランクスとを身近に感じたというか、連続していると感じたから。それは頭で考えてそう思ったわけではなくあくまで感覚的に。ただ劇的な快感ではなかったからけむりんのいう見性とは違うのだろうけど、肩の力が抜け自分が空気になったような感じだった。けん大佐の言う視界が劇的に変化するというよりは、視界の劇的な拡張といった感じ。

頭の回転を止めて世界全体の一部になるというか物(ぶつ)になりきるのが気持ちイイので今はあんまし難しいことを考えていたくないと言うのが本音。頭で考えるとどうしても狭く狭くなるので。