目の前の現実とは何か、どう理解するか

 一番理解不能で訳の分からない問題は目の前に広がる現実だ。まったくもってわけがわからない。日常的に利用するコップや机やパソコンといった人が意識するものから、洋服の細かなシワやうっすらと堆積する細かい埃といった人が普段はまず意識しないものまで、誰に言われたのでもないのに当たり前のような顔をして目の前に存在している。

 また現実の振れ幅という点で見てもめちゃくちゃだ。内蔵を抉り取られ首をそぎ落とされて殺害される現実があるかと思えば、洗練されたステージでピアニストが美しい音色を響かせる現実もある。

 全てをこの世界は平然と展開していく。そこには意味がありそうにもない。意味も無いのに目の前にありやがるコップやらキーボードやら埃やら日の光やらはなんなんだ。まったくわけがわからない。

 そこで、茂木健一郎の著書「生きて死ぬ私」の中のメスグロヒョウモンの日というチャプターに出会った。以下はその引用。

私がこの体験について文章を書くのは、これが初めてである。この体験について、今まで誰かに話したこともない。また、メスグロヒョウモンは逃げてしまったのだから、今、私の手元にメスグロヒョウモンの標本があるわけではない。すなわち、私がメスグロヒョウモンに出会った初夏の一瞬の出来事は、言葉や標本といった、流通するメディアに乗ることなく、私の中に「流通しないもの」として存在していた。今、私の経験がこうして言葉になり、その結果ある程度の「流通性」を獲得したとしても、そのことで何かが本質的に変わったとは思えない。私のメスグロヒョウモンの体験は、私の胸の中に「流通しないもの」として存在していたときに、それで十分であり、完結していたように思われる。何よりも、あの初夏の日に私とメスグロヒョウモンが高尾山で出会ったという事実は、この宇宙の悠久の歴史の中で消去することのできない事実なのであり、何者も私からあの初夏の日を奪うことはできないのである。
 誰にでも、私のような「メスグロヒョウモンの日」はあるのではないだろうか。いや、むしろ、人生の一日、一日の全ては、実は「メスグロヒョウモンの日」なのではないだろうか? そして、これらの輝ける日々を、その一瞬一瞬を、「言葉」というメディアで記録することは、そもそも原理的に不可能なのではないだろうか?
 人生というものは、たとえそれが「言葉」や「映像」といったメディアで残されなくても、その人の生きた人生の1秒1秒が、そっくりそのまま「歴史」としての価値を持つ。そんなことが、あるのではないか? 私のメスグロヒョウモンの日が、そして、未だかって生き、今生き、これから生きるであろう人類の一人、一人の「メスグロヒョウモンの日」が、その歴史が、どこかに密やかに、大切に記録されているのではないだろうか?
 そんなことを、私は時折考えてみる。

 この文章を読んだ時、目の前のコップや机がディスクに見えた。いやまあラリってる訳じゃないから比喩だけども。世界っていうのはありとあらゆるメスグロヒョウモンの日を記録し続けているんだと気がついた。目の前のコップだと思っていたものはメスグロヒョウモンの日のディスクだった。もちろん本物のディスクのようにデータを取り出すことはできないだろう。だがその存在は、幾重にも筆を重ねられたことによって現出する絵画の色合いのように全ての筆使いを反映している。

 目の前のコップをただ単にコップとして捉えるのではなく、宇宙全体の歴史としてみる。コップに限らずあらゆるものは反映なのだ。人間的な喜びも憂いも残虐な行為も美しい音色も取るに足らない雑草の陰の小虫も。その「点」として見るのではなく流れとして見る。

 なにかを拒絶する必要は無い。いや拒絶などできない。否が応でも全てを飲み込み世界は運行していく。目の前に広がる世界はその流れの証左だ。

 何かを何かとしてだけガチがちに捉える。それよりもそれ自体には意味無いんだと思えば気が楽にならないかい。

 あらゆるものは本質的でない。私も貴方も世界の反映として生きているし、容赦なく反映として殺される。

 自らの死を考え茂木健一郎の著書がたまたまWEB上で読めたことで上記のようなことを感じていた。これも反映か。


生きて死ぬ私は以下で読むことができます。ブラウザのメニューから
表示>>エンコード>>日本語(シフト JIS)
を選択しないと文字化けしているかもしれません。
http://web.archive.org/web/20060106125448/http://www.qualia-manifesto.com/ikiteshinu.html