パブリックとプライベートが交わるところ

 本日付の茂木の記事で、冒頭に出てくる私的な領域と公的な領域というフレーズによって喚起されるものに似た
何らかの、いわゆるクオリアについて以前から気になっていたので、こりゃいい機会だと纏めてみる。


 壁際にベッドを備え付けてあるため、部屋で横になると自分の身体と壁のあいだに小さな空間が出来る。
不意に出来た、まず私しか知らないその空間はごくごくプライベートな場所に感ぜられる。
一方で新宿や池袋などの繁華街では、大勢の人々が行き交う空間も同時に存在しているわけである。
しかも両者は単純に考えて物理的に繋がっている。


 いつかテレビでヒル国務次官補が六各国協議の進展についてインタビューに答えていた時も
似たような感慨を持った。
どこか異世界のような気がしてしまう政治交渉の場と日常生活の場とが地続きであること、
それが何故か不意に実感させられ心に刻まれるのに十分な驚きとなった覚えがある。


 カヌーが滑っていく川沿いの人気の無い、だけれども樹木が豊かな公園に足を踏み入れた時も、
また、いつもの道を外れ偶然見つけた立派な神社とその巨大な神木を見つけた時も、
何か似たようなクオリアに触れた気がした。


 思えば、私の意識の俎上に載せる以前から、それらは当たり前のように存在していたのだなあ。
未知であるとさえ知らない未知の領域。
(名前は忘れたが、誰かの人名をとり、輪の図解を用いてそのような未知の未知を諭す例えがある。)
己の意識や思惟の貧弱さに絶望する。


 それは無知や限界を無常にも示すものであったが、かわりに
眼前の現実が如何に圧倒的な負荷に耐え圧倒的な強度を保っているのかを教えてくれた。


 今私の前には、某大手家電量販店の販促グッズであるボールペンが転がっているが
その存在は、私の思惟なぞはるか及ばぬ強度に支えられ存在している。
リサ・ランドールの提唱する五次元宇宙なるものがあろうとなかろうと
そのボールペンとみなされてしまう何かはその正解を完璧に示しているのだ。
語弊を恐れず言ってしまえば、ありのままの現実がそのまま真理。


 手の内の石ころは、誰が握ろうとも、決してパンには変わらない。
矛盾や誤謬があるとすれば人の理論にこそあれども、
現実は決して間違わず全宇宙に矛盾しない。
人類の英知が凝縮された書物よりも、
何の変哲も無いコップひとつのほうが余程深遠な何かを知っている。
(科学の発展に異を唱えるつもりは毛頭無い。ただありのままの現実が
これほどまでに圧倒的な密度を持っているとは思ってもみなかったのである。)


 あらゆる一見相反するもの雑多なものを同時に成立させてしまう大胆さと、
それぞれに関して圧倒的な精緻さを以って全宇宙に違わず成立させる繊細さ。
これらは全く同じことを言っているのかも知れぬ。