おととい感じたあるクオリアについての記録

 クラッチを切りエンジンだけを回転させ空ぶかしをするきらいがある私は、同じくクラッチを切ってエンジンブレーキを効かせず惰性で車を滑らせてみることにした。日常生活ではクラッチをつなぎ回転を均衡させている両者を、それぞれだけで回転させたらどうなるだろう。
 以前の日記に記したように志向性に囚われやすい私は、それを控えるというよりも正反対の行いを試してみようと思いついた。西田幾多郎の精神的身体とか身体的精神といった言葉に着想を得て、身体のほうもそれだけを回転あるいは空転させて、頭の空転をバランスさせてみようというわけである。


 思索の対象が大小様々であるように、身体の運動もどのようにスケールをとっても良さそうに思われる。部屋を掃除するのも、日向ぼっこするのも、手元でちょこちょこと作業をするのでも、余計なことは極力考えずにただただ無心に行ってみる。


 天気の良い日曜日であったので、犬の散歩に出た。身に身を任せ、ただ歩き、景色を眺め、糞を始末し、家のドアを開ける。それら一切は事後的にあとから分別しただけで、その時々は身体が滑っている、流れているだけだった。


 意識はしっかりとある。しかしその思考の伴わない体験のクオリアは、以前の日常生活となんら変わらないようでいて、独特の心地よさを放っていた。


 ありのままに見る、という表現ではカバーしきれず違う。wikipediaに見つけた鈴木大拙即非の論理に関する説明文にガーンときた。「Aは非Aであり、それによってまさにAである」
これはおそらく華厳の一即多や相入相即がそういうことだったのかということにもつながる。


 鈴木大拙がそれについてのみ述べた書物があるわけではなく、多くの著作に通底するような思想のようで、鈴木大拙即非の論理で意味しているところと、私のクオリアによる理解はもしかしたら異なるかもしれない。鈴木大拙の著作を読んで検める必要がある。


 公園を散歩やマラソンするのと思索に専念するのと、どちらも良い。このまま続けてみる。