まずは自分のために

 支障なくスムースに生きていけるのならそれだけで充分である。問題は重大な困難に直面し、それが社会で流通する一般的な論理で回収しきれない場合である。生と死の狭間を揺れ動くような葛藤は、世界とは何か、私とは何か、何のために生きているのかといった根源的な懐疑への向き合いを要求する。おそらく安穏と生活できるうちは、人間の性でもありそういったものとの対決を避ける。抜き差しならぬ状況に陥って初めて、命を懸けた命題として迫ってくる。
 盲目的な信仰や自ら命を絶つ行為は、その命題の負荷に耐え切れず選択してしまうものであろう。次が無いかも知れない、明日を生きられぬかもしれないという状況に踏みとどまる事はまことに苦しい。頼り得るものなど何も無い、全ての底が抜けているその状況では、他者の言説はおろか自分すら信ずるに値しない。全ての前提を叩き壊して命題へと向き合い続けることになる。スペックは限られていようとも自分の頭で考え、現実を見つめ、答えを提出しては破棄を繰り返す。根源的な問いへの解答を避けていたツケは、一朝一夕では解消できない。
 そうした苦闘の結果辿り着いた答えや答えへの道筋が、自分にしか納得できないもの、或いは特定の文脈に身を置いた人間しか理解できないものであれば、社会に流通させても無用であろう。しかし、その極めてプライベートな自分による自分のための解答が、時代や社会、民族や宗教といったバックグラウンドを異にする命題に向き合う人々の間で共通性を持つ場合、科学的な世界観と融和可能な場合、重用されずとも流通させておいてもよいのではないか。
 そういった認識で確認をしつつ、のびやかに歩んでいこうと思う。


 現時点での、即非の論理について私の理解をまとめておく。
自分が死ぬということを了解すれば、永続的とも根源的とも思える自他の対立は仮のものだと認められる。
生まれる前、死んでしまった後にはそういった境地にあるであろう。
問題は今である。仮にしろ、自他の対立を感ぜられる今をどう解するか。
そこで振り返ってみれば常に私は、自己完結の存在として私としてではなく、何らかの環境の只中において私なのであった。
ランドセルを背負って通学路を歩む私、端末室でレポートを仕上げるべくPCに向かう私、会議の場で手許の資料に目を配る私、手を握るべきか否か映画館の暗がりでドギマギする私など、私が居るとすれば、只中にある私であった。
私と私以外の世界といった対立しているように感ぜられるものは、常に並存している。
私で世界を感じているのか、世界で私を感じているのか、どちらの見方も出来るであろう。
Aを認めれば、必ず非Aが並存する。そこにAと非Aの根源的な永続的な差異はあるのだろうか。
さらに言えば、Aも非Aも同じものではないのだろうか。
「Aは非Aであり、それによってまさにAである」
AはBである、とせず、Aは非Aであるとしているのは、非AがA以外の世界全体をさすためだと理解している。
私を例に取れば、私は私以外の世界全体であり、それによってまさに私である。
在るとすればAとも非Aともつかない何かであり、そこにあえてAを認めるのならば非Aも入ってくる。
Aと非Aは不二であり、仮の対立である。