述語

 「『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか」を読んでいて自分なりにちょっとした補足。
「飛ぶ」ことにより、空と鳥が生まれる。あらかじめ存在する空を鳥が飛ぶのではない。鎌田茂男の著作にも南直哉が眼蔵の読みとして語るこのような述語の世界が示されていた。
 ここで、二元図式に仮託して言明するならば空の立場で述語を使っても良いのではないか。
飛ばせることにより空であり、虫や獣を住まわせることにより山である、とういうように。
「何」としか呼べない何かでは、二元図式でいう相関関係で諸々の存在をあらわにするのではないか。


 そうすると、名詞の世界では単なる山でも、ある者にとっては森である者にとっては川で、ある時期には海で、ある時期には山で、しかもどれも同じく存在として成立してくる。


 その上で、二元図式のどちらの立場に立つわけでもない「飛ぶ」という動詞の再構築につなげる。


 フォーマルな場ではこういう物(者)であると言い切ることを求められるが、どう折り合いをつけていくか。結局、自分も含め世界の何もかもがわからない。夕暮れの山の稜線を見て存在の相関性に思い至る。