言語的思惟の死角と日常の実践にはどういった結びつきがあったのか

 すべては内部であると言うだけでは不十分ですべては外部であると言わなければならないとか、あらゆるフェーズで完全にコントローラブルなものというのは幻想であろうとかごちゃごちゃ書こうと思っていたのだけれど、
南 直哉の「『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか」を読み始めて
そんなことはすっとんでしまった。
中盤に差し掛かるあたりだが、かなりエキサイティングな読書となっている。


 見性やら何やらについての了解を静かに整理しても
生きる上での苦に実践でどう取り組むのか、
どういった行いを日々していくのかが結局のところ問われてくる。
概念上での把握は私達の実生活との間にある乖離を
どうしても埋めきれない。


 そういったギャップにこのたび
ポーンと飛び込んできた。


 目の前の何の変哲もないお菓子の箱をはじめ
日常目の当たりにするものが在るというだけで大変な奇跡だと感じられたことや、
コンビニの帰り道走り去っていく自動車や自転車の青年を見て
その存在に関係性というかエネルギーの密度というようなものについて
圧倒的な説得性を感じたのはどのように了解すればよかったのか。
実生活の現場と直結する生きた了解を南直哉の本は例示してくれた。


 南直哉流に言えば便宜上ということになるが、
ここではお菓子の箱や自動車自転車ありきの書き方をしているのだが
そう呼んでわかった気でいるその何かはとてつもない代物である。
あらゆる局面でそれを確かめ実践としていきたい。