名前の無い述語世界

何をして何をしなかったのか
どのようにあってどのようにはないのか。
何を言って何を言わず
何を考え何を考えないのか。
それがまさしくその人である。


人に限らない。
半ば無自覚的に、「それ」についた名称として
自己完結していると理解しがちな「それ」は、
どういう運動をするかどういう振る舞いをするかが「それ」であって
名称は事後的である。


水を湛えるからふつうコップと呼ぶ。
逆にコップと呼んでいるからといって
水を湛えるとは限らない。
底に穴があいてしまえば、ガラクタとか壊れたコップとなる。


水を湛えるかとは別に、
形状や材質や美術的価値という性質や状態がコップなのだとしても
同じことである。


単純に名前が変わるよねということではなくて、
名付けてわかったような気でいる「それ」は
何ともいえない生き生きとした何かである。


そういう述語世界の感覚でみると
クラシックは行為の爆発、開花とみえてくるし
バレエダンスは生きることそのものを鋭利にみせている。
酢はそのままでも、また合わせ酢にしても
どう利いてくるのかがまさしく酢をあらわしてくれる。


今日TokyoMXTVで放送していたカラヤンのコンサートは
まさしく開花であったし
アスリートの姿を想起させられた。


そのアスリートという関連でプロスポーツについて。
なぜプロスポーツが人気を博するかといえば
観客へ述語世界を垣間見せるからだ。
プロのアスリートはまさしく運動を披露する。
有名でスターだから見るのではない。
スターの名は事後的なものだ。
まずプレーありき。
経験のあるスポーツを多くの人が好んで観戦するのも
名詞の世界でなく述語の世界でそのスポーツを理解しているからである。


述語世界の感触で見渡すと
動と静、上品と下品といったキーワードになるほどと頷ける。


荒削りで不正確な表現は多々あるかもしれないが
本日はこんなところ。