具体的に生活でどうするか

未だ原典を読んではいないので推測も含まれるが
ホワイトヘッド有機体哲学や華厳のインドラ網を
要素とその関係のあり方だと受け取れば、
述語的な理解とは異なってくる。


有限とはいえある程度独立した要素を前提にすると
どうしても頭だけの理解であって
実践には即してこなくなる。
私はかなりそこに躓いた。


一歩間違えればオカルト的な表現だが、
(動的な行為でも静的な行為でも)行為の一つ一つが波紋に見えれば
仏教の阿頼耶識という理解はどういうことであるかと
なぜ道元はかくも厳しいのかと
体感できる。


日々触れるものが生き生きと感ぜられ
その整理をする毎日。
フリーランス的な生き方が当たり前のように感じてくる。