苦しみ

 我々は普段限定された文脈で物事を捉えている。東京、日本、アメリカ、宗教、人種、家庭、恋人、友人、アカデミック、ビジネス、プライベート、多様にカテゴライズしていく。ただ実際は、それら一切が一人の人間が把握できる範囲を超えて並存している。考える人の頭上には青空が広がり、踏みしめる大地の奥底ではマグマが滾っている。
 飛躍した概念的な形而上的な全体ではなく、目前の具体とシームレスに敷衍する全体。部分の総和による有機的な全体ではなく、ただ全体としてある全体。[追記:要素論に対する全体論とは違う。踏み込んで言えば、部分は存在しない]
 アングルを変えれば、かけがえのない私の具体と”等価で”誰にも具体があるということである。そこで私はそういった把握しきれないものの存在をいかに認め切実に寄り添いうるだろうか。
 把握しきれないといっても、あるのかないのかわからない胡散臭いものを指すのではない。確認すれば確かにある現実、寒空の下で震える人々や戦争の大地で争いに曝される人々、悪徳政治家の逡巡や葛藤を身につまされる想いで「Quel est ton tourement?」と問いかけられるか。


 そんな風に思い巡らせる日曜。ゲーデル著「不完全性定理」、シュレーディンガー著「生命とは何か」、日高敏隆訳「生物から見た世界」、前提知識の不足を痛感させられながらも他の本の手配と平行させ読み進めている。著者の主張とその人生も、出版に携わった人々や好意的批判的に接する読者達も「みんなちがって、みんないい」。
 それは能動的な肯定というより受動的な肯定で、全体が全体として受容される現実を認める態度だ。


 人為的に設けられた境界や定められた領域を疑い、シームレスに実感しなおす。その上で、その境界や領域すらも嫌うことなく許容する全体の消息。


 そういった感慨を意識的に強いていくのでもなく、薬物や身体操作で特殊な意識状態にするのでもなく。普通の意識で、日常にその消息を聞く。


 [追記:一晩たってもどうもしっくりこないので削除。]