崖の上のポニョ

 金曜日、日本テレビで放映されていた「崖の上のポニョ」を観賞した。少なからず教養が要る神話的な謎解きは断念しつつも、唸らされる部分はそこかしこにあった。
 まずは並存性。宗助とリサの暮らす日常では、他の児童や保護者、介護施設の職員らがそれぞれの時間(都合)をきちんと生活している。ポニョが暮らす水中世界、街が水没した非日常世界でもそれは徹底され、クラゲも古代魚カニも、主人公達と同様に物語を抱えて生きているように感じられる。グランマンマーレとの対話シーンや峠をリサが車で攻めるシーンなどで主人公の「視野の外」を三葉虫や漁船がのんびり見切れるあたりは、特にその感慨を抱かせる。
 次に印象的だったのは、三途の川と思しき場所で、乳児の母親が語ったシーン。うろ覚えだが、母親はポニョに対し「赤ちゃんはものが食べられないので、お母さんが代わりに食べておっぱいとして食べさせてあげるの」と語る。乳児が食物を食べられないのは当然といえば当然なのだが、ハッとさせられた。成長した個体は、自ら他と向き合い、他の命を取り込むことが出来る。一方の赤ん坊は、生存に不可欠な栄養補給を母親に全面的に依存しており、母親無しには生きられないのだ。母親を経由して他(世界)と向き合っている存在。授乳はそのことを端的に象徴的に示している。必ず同じ経路を通じてしか、他と向き合えない状態は赤ん坊と同じなのかもしれない。
 そして最後にもうひとつ。フジモトがポニョの本名はブリュンヒルデだと言い張るシーン。授乳のシーンとも関連する関係性の問いを想起させる。フジモトとポニョとの関係はブリュンヒルデという名なのだが、ポニョはその関係性を超え境界を越えることで、与り知らぬところで生きていた宗助に出会う。二人は出会うことで、お互いに生まれ変わるのだ。新しい関係につけられた名はポニョという。既知の自分に安住しがちな、私達の更新可能性を鼓舞してくれる。


 これらを踏まえつつ、私は崖の上のポニョには世界の相似形を感じた。
 与り知らぬところで、与り知らぬ何かが、生きている。動いている。生物か無生物かもわからない。微塵にも満たない私の知覚範囲では知りえないし、想像だにしえない。だがこれを読む貴方をはじめ、たしかにいる(はずだ。)
 原理的に私には知覚し得ない。その自らの有限性への絶望は、限りない世界の広がりへの希望と全く等しい。
(そして窮極的に言えば、身体も、意識を宿す脳も、いや意識すらも、与り知らぬところから立ち上がってきているから、微塵ほどの有限性すらないのかもしれないけれども。)


 宮崎駿崖の上のポニョのCMコピーで「生まれてきてよかった。」と謳っている。私にとって、これは相当な覚悟がなければ他者に語りかける事が出来ない言葉である。もし同様の言葉を私が誰かに送るとしたら何を以ってその証左とするか。自らの無明と裏表の、果ての無い可能性とでも言おうか。いや、当分宿題になりそうである。