マイルストーン

何かの岐路を過ぎたような気がするのでここに留めておく。


与えられた生をどう引き受けるか。それに私は苦心してきた。
試行を重ねるにつれ、身体性を無視した方法論は有効性を失っていく。


身体は、必然的に、その外部のものと対立を強いる。
ある地点で、私は臆病な博愛主義者を脱ぎ捨てる決意をした。


すると雲散霧消、次第に視野が定まってきたように感ずる。


このあたり表現が容易ではないのだが
対立とは即対決を意味するのではなく、適度な緊張関係の維持といった
意味合いである。


自らの有限性を自覚し、生物無生物問わず他の有限なものたちとの均衡を続ける。


主義や主張が真っ向からぶつかる相手は、都合が悪く、著しく気分を害すものであるが、
その存在自体は認めることが、即自分の存在を肯定することとなる。
対立の覚悟は寛容と表裏一体である。


自らの有限性、その都合の局所性から、どこまでも広がる他の都合の海を見渡せる。


無知の知をもじれば、無感の感とでも言おうか。


外部との対立と同時に成立する外部への信頼。