進化、あるいは変化は受動的か

大学の入学試験準備のアルバイトが山場を終え一段落し、久しぶりの連休を過ごしている。こうしてblogを綴っているのは、他の誰でもない自分のために続けているんだと再確認しながらキーボードを鳴らす。

テレビの自然ドキュメンタリーでハンマーオーキッドという蘭の花の特集を見たことがある。この花の花弁は蜂のメスにそっくりで、一目惚れしたオス蜂がブーンとのん気に飛んできて受粉の手伝いをしてくれる程よく似ているそうだ。そこで疑問に思うのはこの花弁、ハンマーオーキッドが蜂を利用するために自発的に考え種全体で創造でもしたのだろうかということ。番組では一例として、昔々たまたま蜂のメスに似ている花弁を持ったハンマーオーキッドが生まれ、蜂がその花の受粉を重点的に手伝うことから他の色形のハンマーオーキッドより抜きん出て子孫を残し、それが繰り返されて特徴的な花弁を持つ花となったのではないかと説明された。その説明に、実際の詳しいいきさつはわからないが、私はなるほどなと感心した。進化とは分化なのだな。

このハンマーオーキッドの一説は、「今それがどのようなことになっているのかは、他とのかかわりで受動的に決められたものだ」という捉え方と一致する。私は主体的に当記事を書いているつもりだが、それも受動的な連鎖反応のおかげかもしれない。