生きた具体的な現実

 私は意識の志向性に悩まされてきた。専門的な見識があるわけでもなく
適切な表現ではないかもしれないが、ここで志向性とはカメラのピントのような
意味合いだと理解している。


 対象が目の前にあるか頭の中か或いは具体的か抽象的かを問わず、意識がそれに
向かうとそれだけで心の中が占められていく。おそらく沢庵和尚の言うところの
有心であり、思い詰めたる心であろう。悲しい事や苦しい事、嬉しい事や興味関心の
ある事といった感情を掻き立てるような物事であればより一層心を捕らえてくる。


 大抵の場合は、それに関して頭の中が空転しある程度の回転数をこなしているうちに
日常の些事がやってきてループから抜け出す機会を与えてくれる。だが折に触れて
そのループに嵌る脆さは残ったままである。


 生きた具体的な現実をありのままに観ずることは、どうやらそういった意識や心の
ありように囚われない。ありのままに観じ、曇りを払拭したいと思う。