絶望的な断絶を超えて

三軒先の住人の顔も良くわからない現代の東京は、バラバラに分裂して個々人が生活している。
他人は、それぞれかけがえのない人生を生きる生々しい存在であるにもかかわらず、どこか無機質な存在として遠い距離感にある。
多様性を認めつつも孤立化し、「そんなの関係ねぇ」と呟く。


生が有限であるとは一体どういうことなのか、それがわかってくるにつれて、バラバラに分裂したものは一挙に統合へと向かう。
絶望的な深い崖に隔てられた他人と自分、客体と主体との距離は十分に跳躍可能である。
それは話し合いによる理解や学問的知識による理解といった幻想や錯覚の類ではない。


余談になるが言葉による伝達は困難だ。
語り手には経験や体験がまず先にあり、それにふさわしい言葉を見繕い近似させて表現とする。
受け手は、その二次的な産物から語り手の体験や経験を推察せねばならない。
そこには多分にズレが生じる。
考えてみれば当然のことだが、語り手としても受け手としても、私はたびたび忘れがち。