脈々とバトンされる表現

 赤塚不二夫葬儀での森田一義の弔辞のなかで
次のように述べられている。

 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。

子供心に無茶苦茶する漫画だなと思いつつ読んでいた天才バカボンやおそ松くんに
そのような哲学的とも言える背骨があったとは。


 それで思い出したのは、トキワ荘手塚治虫の漫画に関連したある意見。
どこで目にしたかは忘れてしまったが、
新しい表現ジャンルは
黎明期の世代とそれに続く世代あたりで
出来ることをほぼやり尽くしてしまうため
後の世代は縮小均衡を繰り返していくだけだという考えであった。


 サブカルチャーにもハイカルチャーに関してもまだあまり造詣は無いが
勝手に推測してしまうと、どの表現形式であろうと
表現しているものは同じになっていくのではないか。
新しい表現は、その内容でなく、形式が新しい点に意味があるのか。


作品に向き合う時、何を表現しているのかに注意が向くが
真に肝心なのはどう表現しているのかなのかもしれない。