エントロピー

 私の心は私の身体にバインドされてしまっている以上、やはり心身に起こる作用は、例えばアンデスにあるサボテンの開花や光合成よりも切実に迫ってくる。解釈において非常にデリケートに扱わなければならないものの、肉体があるうちは涅槃に至れないという仏教の教義はうなずける部分が出てくる。
 自分と他人をはじめとして、プライベートかパブリックか、味方か敵かといった区別で濃淡に差がある。「生物とは何か」の訳者あとがきには忘我感を悟りに近しいものとしていたが、同書中の言葉を借りれば私のエントロピーが最大となるのが悟りと表現できるかもしれない。


 ではエントロピーを上げて、雲のような人になるにはどうすればよいか。終の雲散霧消に至るまでにどう漂えばよいか。
 先日の抜歯では、今の今まで私の一部であった歯に立派な根がついていた。不可視の領域で営まれていた生。サボテンよりも切実に寄り添っているはずの私自身という対象でさえ、私のものではない。
 だから、完全なコントロールを諦めれば良いのだろう。常々そう感じる。それに遡上は出来なくとも方向を変えることくらいはできるかもしれない。閾値を超えて始まった反応は個人の願いや祈りを冷酷にはね除けて進行していくが、何かを投入すればまた新たな反応を引き起こし色を変えられる。


 人々の間を社会の境界を、自分の願望や欲望の只中を、囚われず拒みもせずすいすいと進む人は無限の変化がある虹色なのかもしれない。