東京奇譚集

1Q84が手に入らず、代わりといっては何だが自宅にあった東京奇譚集を読む。[書評]東京奇譚集(村上春樹): 極東ブログを発見して、さっそく品川猿から読み始める。ハナレイ・ベイや偶然の恋人は読んだ気がするが、どうも品川猿は初見の印象である。東京奇譚集、途中まで読んで忘れてしまっていたのかしらん。
品川猿は名前を奪うことにメリットもあるのだと語った。彼に会うことができたなら、私はぜひとも奪って欲しいと言うだろう。(おそらく彼の好みに合わないけれども。)
我々は当たり前のような顔で名を名乗り、それこそが正しく自分を輪郭付けるものであるような気がしている。ところが考えてみれば、この世に産み落とされた数キログラムのか弱い命に最初から名前など刻まれていない。名前など、本来は誰一人持っていないのだ。だからできることならば、名前など忘れて生きていたいなあと儚く想うのである。
だが主人公の安藤みずきのように、いったん名前の無根拠性にぶつかると、名前によって表象される人生を引き受ける道筋も開ける。得体の知れない何かは、死ぬまで得体の知れない何かのままである。いや死んでも芥子粒ほどもわからない何かである。嘆くことも喜ぶこともない。また、嘆いても喜んでもいい。何を引き受けているのか結局のところわからないのだから。
品川猿の読中に感じたこととはやや違う感があるが時間がないのでこれくらいにとどめる。


笑われるのが当たり前と腹をくくると、案外傷は浅くて済むものである。対向の歩行者が顔をしかめ或いは意味深な笑みを浮かべ、それに驚いた先を歩む人が私のほうを振り返る。毎日何度となく繰り返される光景である。笑われたくないと意固地になるから傷が深くなる。笑われて当たり前、そうでなけりゃ儲けもんの精神で少し楽になった気もする。
受難をそのまま災いとして振りまこうとする意識はほとんどない。無意識にしている可能性はあるが、もっぱらどこまで自分が生きていられるのか観察しているようである。
今日は生きられた。明日はどうか。