傷を負いながらも考えること

なかなかスムースにはいかない。
つらく心が硬くなってくると、
やわらかくする道筋を
命が探し始める。


訪れたことのないイタリア南部の街並みや
セイシェルの美しい浜辺に思いを馳せる。
路地の小さな居酒屋や手作りのケーキ屋で
店内に漂う匂いをイメージしてみる。
人類など生まれる遥か以前の宇宙創成期の様子や
氷に閉ざされたエベレストの山頂に吹雪く風を思い描いてみる。
今ここに縛られた五感では触れようのないそれらは、
いつかどこかで存在している。既知の未知と未知の未知。
それらに触れもしないで、なぜ私は絶望しているのか。
行き詰ったら外側、価値観の外側、世界観の外側を
目指せばいいじゃないか。
悪態をつく人々がいれば、
寛容に受け入れてくれる人々もいるかもしれない。
外側に旅を続けることで、傷を癒していこう。


旅を宿命付けられた人のように、
どこまでいっても存在にはその外側がある。
外側のないものはあるのか。
世界、宇宙といった表現になるだろうか。
一切の存在を含む存在。
全てを備えた完璧な存在。


私は外側がある不完全な存在であるが、
その外側のない完全な存在にも在る。
私を締め出してしまっては、
世界の外側ができることになるからだ。
私でも、
この世界が完璧であるために必要なのだ。
事はいかなる存在にても同じ。
神とかいっさいの観念も含まれてくる。


そもそも内側外側といった分別が
私による後解釈で、
世界は内外のない世界として
ただただ運行しているのだろう。


区切られた領域で最適化を目指す現代社会で生きながらも、
外側の風景に目を凝らし続ける。


誰が作ったかわからない食材を調理して食し何事もない。
そのたびにでも外側を思うことができる。