でかい顔をして

文字通りでかい顔をして、大腕を振って歩けばいいんじゃないか。保身や臆病さから、他人の顔色を窺い気に入られようと生きてきた。だが卑屈になってうつむいて生きるよりも、たとえ嫌われようが顔をあげて好きなように生きたほうがいいじゃないか。
現状に何の不満もなければ、そのまどろみに身をゆだねるだろう。人間は怠惰な生き物だ。しかし幸か不幸か、私は(少なくとも私にとっては)切実な問題を与えられた。怠惰を打ち破る情熱の素となる火種を授かった。人に嫌われてもかまわないという覚悟で生き、実力を裏づけとして涵養する。その動機付けには困らない境遇なのである。
ありがたいことである。四の五の言わず、面倒だなどと言ってられないのだから。もちろん道は険しい。だが誰か・何かに救われるのを待つのはもう止めだ。
決意というのは揺らぐものである。紆余曲折もあるだろう。今が最高のテンションだと割り引いて、朝鍛夕錬を持続させるライフスタイルを確立せねばならない。今日からその経過を記していく。
三日坊主だったりするのだろうか。自分の意思というのはお世辞にもあてにできない。だが厭世的に生きる道もないし、やるしかないんだな。運命を引き受ける痛みと喜び。

東京奇譚集

1Q84が手に入らず、代わりといっては何だが自宅にあった東京奇譚集を読む。[書評]東京奇譚集(村上春樹): 極東ブログを発見して、さっそく品川猿から読み始める。ハナレイ・ベイや偶然の恋人は読んだ気がするが、どうも品川猿は初見の印象である。東京奇譚集、途中まで読んで忘れてしまっていたのかしらん。
品川猿は名前を奪うことにメリットもあるのだと語った。彼に会うことができたなら、私はぜひとも奪って欲しいと言うだろう。(おそらく彼の好みに合わないけれども。)
我々は当たり前のような顔で名を名乗り、それこそが正しく自分を輪郭付けるものであるような気がしている。ところが考えてみれば、この世に産み落とされた数キログラムのか弱い命に最初から名前など刻まれていない。名前など、本来は誰一人持っていないのだ。だからできることならば、名前など忘れて生きていたいなあと儚く想うのである。
だが主人公の安藤みずきのように、いったん名前の無根拠性にぶつかると、名前によって表象される人生を引き受ける道筋も開ける。得体の知れない何かは、死ぬまで得体の知れない何かのままである。いや死んでも芥子粒ほどもわからない何かである。嘆くことも喜ぶこともない。また、嘆いても喜んでもいい。何を引き受けているのか結局のところわからないのだから。
品川猿の読中に感じたこととはやや違う感があるが時間がないのでこれくらいにとどめる。


笑われるのが当たり前と腹をくくると、案外傷は浅くて済むものである。対向の歩行者が顔をしかめ或いは意味深な笑みを浮かべ、それに驚いた先を歩む人が私のほうを振り返る。毎日何度となく繰り返される光景である。笑われたくないと意固地になるから傷が深くなる。笑われて当たり前、そうでなけりゃ儲けもんの精神で少し楽になった気もする。
受難をそのまま災いとして振りまこうとする意識はほとんどない。無意識にしている可能性はあるが、もっぱらどこまで自分が生きていられるのか観察しているようである。
今日は生きられた。明日はどうか。

天国への階段

お気に入りのブログ群を久しぶりに巡る。やはり素晴らしいことが書いてある。爆発的にあれだけ書いてクオリティにばらつきもない。それが無料で読める。ありがたいことこの上ない。
個人的な近況としては、精神的には追い詰められている。澱のように沈殿していたものが水面に頭を出したのだろうか。閾値を超えた感はある。何かをしなくてはならない。終わらせてしまおうという衝動に加担する心情と、ギリギリまで引き付け決死の覚悟で回避しようとする心情が、葛藤している。
昨日今日で巡回したブログには1Q84の書評が多く掲載されていた。そこから漂う魅惑的な香りには、諦めを留保させ、もう少しだけ生きてみようとさせる何かがあった。
振り返ると、小さな矛盾した世界で苦しんでいた昔を懐かしめるような、そんな時が私にも来るのか。
そう書きながら、今しがた心に浮かんできた最大の欲求を記す。世界観の更新という欲求こそ、私が今日を生きる理由となりえるかもしれない。
食欲がないわけではない。だがそれが安住の地ではない。性欲もないわけではない。だがパートナーがいた時も安住の地ではなかった。眠りの中にも、コレクションにも、権威にも救いはない。
いくら天めがけて投げても放物線を描く欲求には関心が失われてきた。段を積み重ね、天国への階段を造る。


追記:
100個のピースで完成させた絵でも、たった一つの小さなピースが加わるだけでまったく別の絵になる。世界観の更新に顕著な特徴といえる。
別の、という点が肝要で、関数のような連続的変化ではないジャンプにこそ、魂の快感が秘められているのかもしれない。

探求

 どうしようもないことが人生では起こる。しばしばそれに現実的な解決策が無いこともある。そこで、行き詰っても立ち止まらずに、解決可能な地点に立ち戻って新たなルートを探る。
 このような果ての無い探求が生きるということであり、肉体的にあるいは精神的にそれをしなくなった時、死を迎えるのだろう。探求をあきらめたのなら、それは自分を殺してしまっているという意味で、無自覚的な殺人者なのかもしれない。
 まだ見ぬ光景を目指して、登攀の一歩である。
 梅雨はどこに行ったのか。日差しが強くなり夏らしくなる。

賭け

 昨夜は気持ちが落ち込んでいたためか、日記の更新が頭から飛んでいた。あまりネガティブな言葉を連ねたくないのだが、いかにそれを突破するかという観点からすれば、悩みを吐露することから始めてもいいかもしれない。
 標準から大きく外れた風貌は目立つのだろう。そこかしこで突き刺さる視線は慣れたといえ、わが身の疲労とマリアージュしてこたえるものがある。
 過酷な環境に晒された先人達はどうしたのか。知恵を絞って雨風に耐え、嵐が過ぎ去るのを待つ。あるいは住み慣れた地を捨て新天地を求め、未開の荒野を目指す。いずれにしても自らの生を賭して生を得てきたのだ。
 私はどんな生き方に札を張るか。