一日分を生きる

啓発書の古典「道は開ける」にも類似の記述があった。問題は一気に解決しない。今日一日分だけを生き、一歩だけ歩みを進める。


生きていること自体、苦しみなのだから、自ずから愉しくする。
皆、苦行を運命付けられているのだから、仲間なのだ。
学習された無力感のスパイラルから逃れる。


素晴らしいあとがきに、心が軽くなる。
茂木健一郎 クオリア日記: 脳で旅する日本のクオリア


死の運命を直視する人は、
自分という存在が外部に開かれているという認識に至らざるをえないのだろう。


肉体に幽閉されながらも、鉄格子からのぞく空をみる。
解放は誰にも約束されている。


いや、もしかすると最初から幽閉などされていないのかもしれない。

背筋が伸びるまでの背景

 午後9時前の銀座晴海通り。車窓から見ると色とりどりの光が煌めき、宝石がちりばめられた様な街並みである。その中を数多くの人が行き交っている。
 その大海に自分が投げ込まれ、生きていることを思う。あんなにもたくさん、己の生を抱えて生きている人間がいるのだ。堅く絶対的だった自分の生が、じんわりと相対化されてくる。差異と統合が同義のような感覚。
 大海の小さな水泡とも、花畑に咲く一輪の小花ともつかないその感覚で、流れゆく景色を眺める。高額なテナント料に見合うリターンを得るべく、手抜かりのない店構えのブランド店。足元から頭の先までドレスアップされ、背筋を伸ばしゆったり歩く女性。好条件に恵まれたことも一因なのだろう。与えられた条件の下に、パフォーマンスを最大限引き出そうとしているように見える。
 ただそのパフォーマンスの引き出し方は、単一の物差しでどちらが上か競争しているという風ではない。他の追随を許さない絶対的に美しい花というのがないように、絶対的正解の店舗や人間などありはしないからだろう。与えられた花としての運命を受け入れ、美しく咲くことにどうすればよいか頭を絞っているような。
 そこで空想をする。この世界が、自分の運命を受け入れ、美しく生きることに頭を悩ます人々ばかりだったら、どんなに素敵な光景が広がるのだろう。そして、その実現に寄与するように、今日から私は生きられるのか。
 繰り返しになるが与えられた運命を受け入れることが、最初のステップになるだろう。諦めとも開き直りとも現実の直視ともいえる底への着地で、根拠なき自信を引き出す。そしてその根拠なき自信で実績を作ることができれば、その実績でさらなる自信の源泉とする。良い循環の実現。
 背筋が自然と伸び、自分が好きで、他人も尊重するような、運命を受け入れ美しく生きるような人になれれば。
 日常の些事がとても大事な意味をもってくるので、まずは掃除をする。

素朴

 背筋が伸びるまでの背景でもよいのだが、調理せぬまま、素朴に、車窓から眺めたときに受け取った非言語的な感触に寄り添ってみる。
 街を行き交う人の波。それを成すひとりひとりに人生の軌跡がある。その膨大な集積の中に、わたしと私の抱える悩みもある。気の遠くなるような海で、なんとちっぽけなのだろうか。流れの圧倒性にしばし、わたしを忘れる。
 またあれだけ人がいるのだから、社会的な役割の代わりはいくらでもいる。頭角を現すのなら、相当の不断の鍛錬が要るだろう。
 ただ美しさに触発されたのではない。暴力的な奔流とさえ感じる流れにわたしは心奪われ、なんともいえない安息のような心地になったのだった。

書いてはみたものの

日記を書いて投稿してはみたものの、下書きへ移動した。イマイチだからである。未来の私と、未来の名も知らぬ誰かがサルベージしたところで読むに値するものを書けているとは思えない。毎日の生活の、もうちょっと生々しい、かつ微妙なエッジの部分に焦点を当てたほうがいいのかもしれない。
傷を負いながらもやさしく生きる道を探る。
外を見ると、雨は降っては止みを繰り返していた。

傷を負いながらも考えること

なかなかスムースにはいかない。
つらく心が硬くなってくると、
やわらかくする道筋を
命が探し始める。


訪れたことのないイタリア南部の街並みや
セイシェルの美しい浜辺に思いを馳せる。
路地の小さな居酒屋や手作りのケーキ屋で
店内に漂う匂いをイメージしてみる。
人類など生まれる遥か以前の宇宙創成期の様子や
氷に閉ざされたエベレストの山頂に吹雪く風を思い描いてみる。
今ここに縛られた五感では触れようのないそれらは、
いつかどこかで存在している。既知の未知と未知の未知。
それらに触れもしないで、なぜ私は絶望しているのか。
行き詰ったら外側、価値観の外側、世界観の外側を
目指せばいいじゃないか。
悪態をつく人々がいれば、
寛容に受け入れてくれる人々もいるかもしれない。
外側に旅を続けることで、傷を癒していこう。


旅を宿命付けられた人のように、
どこまでいっても存在にはその外側がある。
外側のないものはあるのか。
世界、宇宙といった表現になるだろうか。
一切の存在を含む存在。
全てを備えた完璧な存在。


私は外側がある不完全な存在であるが、
その外側のない完全な存在にも在る。
私を締め出してしまっては、
世界の外側ができることになるからだ。
私でも、
この世界が完璧であるために必要なのだ。
事はいかなる存在にても同じ。
神とかいっさいの観念も含まれてくる。


そもそも内側外側といった分別が
私による後解釈で、
世界は内外のない世界として
ただただ運行しているのだろう。


区切られた領域で最適化を目指す現代社会で生きながらも、
外側の風景に目を凝らし続ける。


誰が作ったかわからない食材を調理して食し何事もない。
そのたびにでも外側を思うことができる。

フランツ・カフカの「城」

村上春樹は15歳で読んで衝撃を受けたというフランツ・カフカ。「城」の全編に漂う乾いた存在様態を追体験している。仕事によって、私という存在がなんとか許されている。そんな考えに陥っても無理はないかなと感じる。
ひとりひとりの生の充実に寄与するはずの社会システムが、いくらでも代替を可能とする都市の人口と相まって、人間の主人となってしまっている。
疎外とはこういう感触なのかなと噛み締める。


だがそんなシステムを支えているのは紛れもない生身のひとりひとりの人間であるはずだ。「城」の登場人物達も根からの悪人ではないが、私にはどうすることもできずこれしか方法がない、として疎外される関係を受容している。
無知から現状を追認し、留まってしまうのだろう。私も加担しているのだろう。私は疎外を克服できるのだろうか。
胆を据えて、生身の私を大切に生きる。